缺月在天-大野右仲-

あっちこっち書き散らかした【大野右仲】にまつわるアレコレ

大野右仲と水野忠徳暗殺未遂事件(2010/06/13)

大野右仲追っかけをやっていると必ず直面して「え?」ってなる事件なのですが、箱館で陸軍奉行添役やっている大野右仲しか知らない方にはかなり意外なエピソードであるらしいことが周囲の反応を見ていてわかったので、手元にある資料で流れと背景だけでも紹介できればいいなと思った次第であります。

というわけで久しぶりにレポートっぽいことを書いておりますが、そもそも素人ですのでその辺りはご理解いただけましたら幸いです。

 

≪水野忠徳暗殺未遂事件≫

大野右仲が元外国奉行水野痴雲(忠徳)の暗殺を企て、文久三年五月十九日八ツ時、上山藩金子与三郎に計画を話して壮士一人を借り受け、更に下谷の伊庭道場へ赴いて同道場に通う新発田藩大野険次郎に相談、当人を仲間に加え、神田橋外の広場で唐津の下屋敷に小笠原長行を訪れた帰りの水野を待ち伏せ。しかしいつもは神田橋を通る水野がこの日に限って常盤橋を通ったために失敗。

翌二十日に右仲が病に倒れ、寝込んでいる間に水野が長行と共に京都へ出立した為暗殺は中止となりました。ちなみに翌日の二十日、京都で姉小路公知が暗殺されています。

 

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大野右仲の長野県警部長時代に関する一時まとめ(2007/05/10)

大野右仲は明治16年から長野県警部長を務め、その後も何度か警部長を歴任しました。

*警部長について

日本の警察制度に奏任官である「警部長」が登場したのは、明治14年11月。当初は八等相当。ちなみに、はじめて警部長に任命されたのは翌15年1月14日付の神奈川県警部長。

府県の警察の長官を、今は警察本部長といい、戦後国警と自治警との併立時代には暫く警察隊長と呼ばれたこともあるが、戦前には多く警察部長で通っていた。しかしそもそもの始まりは警部長であり、警務長と呼ばれた時代もあった。名称は何であろうと、府県の警察の総指揮官であり、地方の警察組織の中心として、日本の運営の上に占めてきた地位は大きい。
(高橋雄豺著『明治年代の警察部長』第一章まえがき)

仕事内容は、事務処理から多数の警察官の統御と指揮監督、犯罪捜査や治安の保持、法令の執行など。

 

*就任期間 

明治16年 ~明治20年

  • 前任者・後任者

前任者(初代)は大野県令と旧知の皆川四郎(信州出身/元代言人)
後任者は山田吉雄(南部藩士/山田美妙の父親)

  • 県令 

直接の上司となる県令は、
大野誠(新発田藩士)明治16年7月7日~明治17年10月27日(在任中に急死)
木梨精一郎(長州藩士)明治17年11月5日~明治22年12月26日

 

*就任の経緯

大野右仲が警部長に就任したのは、いわゆる「自由任用」の時代でした。まだ文官任用の具体的な規則がなく、何らかの基準は示されていたかもしれないけれど「よく言えば人物本位、悪く言えば実状因縁がものをいった」ような状況。また、そもそもの官吏の数が少なく、経験の有無を問う余裕などもなく、候補者が少ないため人選困難だったようです。更に、奏任官とはいえ中央政府内務省)が選任するのではなく、府知事県令の上申によって任命されていたのでした。
そんな前提があるので、大野右仲の長野県警部長就任が、友人である大野誠県令との縁故によるものであることはほぼ確実であると思います。
右仲さん、豊岡県では庶務課も担当していたとのこと。地方における警察制度がある程度確立する以前、裁判や警察の業務を行っていたのは庶務課でした。その点で言えば、大野右仲はもともと奏任官であり、ある程度の経験もあるということで、警部長という職は適任であったのではないかと思われます。

 

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大野右仲

大野右仲 おおの・うちゅう(御子孫の話では「すけなか」)

天保9年(1836)12月8日~明治44年(1911)6月11日 ※天保7年生説もあり
別名:又七郎 字:考孫 諱:興宗 変名:松川精一

幕末-明治時代の武士・官吏。肥前唐津小笠原家臣。

古賀謹堂、藤森天山門下。昌平黌にも入る。学友に高杉晋作河井継之助などなど。

安政元年十九歳で江戸へ行くと、唐津藩主子息小笠原長行に「食客又は子弟」のように世話になりながら、廃嫡になっていた彼の為に奔走。長行の復権後はその手足となって活躍する。藩主名代となった長行に攘夷を進言するが聞き入れられず、文久3年前外国奉行水野忠徳を襲撃するも失敗。

鳥羽伏見後、江戸開城を前に江戸を立ち北へ。松平容大により唐津藩士統率心得方を命じられる。会津・長岡の戦闘に協力。仙台で旧幕府脱走艦隊と合流し、長行に従うため新撰組へ入隊。箱館政権では陸軍奉行添役として陸軍奉行大鳥圭介土方歳三の補佐官を務める。長行を江戸へ見送ったあと、箱館で降伏。旧藩に引き渡され、翌3年1月に放免される。

赦免後、豊岡縣権参事として当地へ赴任。その後、千葉縣准判任御用掛、同縣長柄上植生郡郡長、同縣一等属、長野・秋田・青森縣警部長、山形縣南村山郡郡長などを歴任し、東松浦郡郡長を最後に官を辞す。

終焉地は芝区田町。墓所谷中霊園の塩谷家・島田家近く。戒名は良知院外温内剛居士。

参考:『日本人名大辞典』講談社、『文藝別冊 総特集 新選組人物誌』河出書房新社、「国事鞅掌報効志士人名録」史談会(p243-244)

 

親族関係

  • 父親儒学者唐津藩の督学、使番(=江戸留守居役)の大野右仲(肯堂/勘助)。本籍は因幡
  • 母親は儒学者、塩谷宕陰の娘たに。『宕陰先生年譜』(塩谷温/大正12)によると、どうやら子供はいなかったみたいなことが書いてあったりするのですが、最終的に嫡子となる男児がいなかったと言う意味に捉えました。塩谷家は宕陰先生の弟、塩谷箕山が継いでいます。
  • 兄弟は四歳ほど年下の妹、大野澄子。元治元年に小笠原長行公に従い江戸へ出て、儒学者の島田篁村の妻に。子供は三男三女、次男と娘一人は夭折、他の四人は漢学者、或いは漢学者の妻になっています。
  • 夫人は漣子さん。この人も色々不明なのですが、やはり漢学関係者ではないかと。澄さんのことを考えると、やはり宕陰先生周辺からの紹介である可能性が高いと思われます。一緒に観劇しているのを目撃されているので(『学海日録』)夫婦仲は良かった様子。

 

その他

  • 墓地は谷中天王寺墓地(台東区谷中7-14)天王寺墓地は谷中霊園と接しているが、墓の区分番号が無くわかりにくい。隣接する谷中霊園の甲9-13の最奥付近が大野墓に近く、「大野氏累代の墓」と刻まれている。先に塩谷家の墓所を探し、少し奥に向かって南洋風の木を探すのが早いかも。
  • 御子孫が「右仲=すけなか」と証言しているそうなので、そちらが正式なもので、「右仲=うちゅう」は通称である可能性が高いです(釣洋一著『新選組写真全集』新人物往来社/1997年)
  • 「故長岡藩総督河井君碑」の建立者に名前が見られる。

<はじめに>

*このブログについて

10年近くかけてあちこちに書き散らかしてきた、唐津藩士・大野右仲のアレコレについてまとめるためのブログです。ブログタイトルは右仲さんの『函館戦記』から。

*方針あれこれ

参考文献からの引用などの文章を除いて、本文などの引用・転載は常識の範囲内でご自由にどうぞ。できれば引用元としてブログ名やリンクなどを記載頂ければ助かります。但しド素人の考察ですから、読み違いや勘違い等があることを前提にお願いします。

最終的には大野右仲に関する文献目録的なものを作りたいと思っております。

*その他

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