缺月在天-大野右仲-

あっちこっち書き散らかした【大野右仲】にまつわるアレコレ

今週の右仲さん(5-8話)

ツイッターで毎週ぽちぽち呟いている、大河ドラマ『八重の桜』における「今週の右仲さん」2月分まとめです。攘夷運動の激化、安政の大獄桜田門外の変、そして舞台が都へと移っていく会津京都守護職拝命前後。

 

 

  • 第五話(2/3放送)

今週(安政5〜7年)の右仲さん(22〜24):引き続き昌平黌を出たり入ったり。いわゆる安政の大獄により師であり外祖父の友でもある藤森天山が江戸追放になったので新居の市川までお送りしたりしました(学海日録/安政6.11.28)あと高杉晋作が江戸を離れる時にお見送りした友人として他藩の人間としては一人だけ名を連ねてます(試撃行日譜/万延元年.8.28)


補足:ところで安政5年に一度、昌平黌を辞めた理由はもしかして:若殿が藩主名代として唐津に帰ったから。で、江戸に戻ってまた昌平黌に入った?と思ったのですが、でもそのあとも一年おきくらいに出入りしてるからどうだろなー
と思いながら友人である依田学海(佐倉藩士)の日記を確認したら、東海道を通った時の奥津・蒲原・吉原の様子を話しているので、やっぱり唐津まで帰ってるかも(学海日録/安政5.8.24)

 

  • 第六話(2/10放送)

今週(文久元)の右仲さん(25):尊皇攘夷運動はじめました☆当時の若者の流行みたいな感じもあったので京都だけでなく江戸でも盛んになっている頃です。右仲さんも当然流行にノってましたが、たぶん主な活動は白熱する議論。学生運動的なノリだったんじゃないかしらー。

 

補足:この頃の尊皇攘夷運動。異国人の排除を叫び、条約を結んだ幕府の弱腰を詰るために朝廷という存在を持ち上げ始めました。まだ倒幕/討幕と言う思想は広がっておらず、あくまでも現政権への圧力、みたいな。だから幕閣にいる若殿に忠義を尽くす大野右仲が運動してても一応矛盾はないのです怒られるけど。
この頃の彼の活動に関しては昌平黌時代から周りに村塾生(高杉、久坂他)が多かったからなぁというのもあるのですが。たとえば、高杉晋作の日記『初番手行日誌』では

> 非番、朝有備館撃剣、朝飯後少読書、夕飯後三井に到る、又奥平数馬を訪ふ、夜佐々木男也、大野又七郎傳言申来(文久元.9.24)

という記述があったりする。(長州藩士佐々木男也と右仲はどちらも藤森天山の塾生)
ドラマの先週から今週にかけての頃(=会津京都守護職拝命前)だと長州と会津はまだ個人レベルでの交流が普通にあって、久坂が日記で会津の広澤さんを友人と書いてる。っていうか秋月&広澤の昌平黌組とは結構会って飲んで話してる。もちろん大野右仲とも。
そういえば、京都守護職拝命の前月に生麦事件が起こってたんだけど出てこなかったね。これの後始末で唐津の若殿が苦労するのは翌文久3年(ドラマだと来週以降)の話。

 

  • 第七話(2/17放送)

今週(文久2~3年)の右仲さん(26.27):尊皇攘夷発言が過激過ぎて捕縛されかけたので京都に逃げました(※本人談)京都で容保や、慶喜の側近である原市之進、京都町奉行の永井主水正等と謁見。目的不明。12月には若殿が兵庫台場築営の件で江戸からやってきたのでもちろん合流しました。


補足:若殿はこの時期(文久2年末)老中格の外国御用掛に任命されました。攘夷は到底不可能&開国論者で立ち位置は慶喜の補佐。12月に江戸大阪兵庫と移動して和田岬の砲台構築現場を下見したあと翌1月京都で慶喜と合流。
というわけで、目的不明と書いた大野右仲の要人訪問ですが、順当に考えれば若殿が京都に来る前の露払いというか下準備の可能性が高いなぁと。まだ家を継いでないので比較的自由&外祖父が高名な学者なのでアポを取りやすい。
そして若殿が大阪兵庫を下見している頃、容保公の命でそれについて行った会津の秋月&広沢コンビが、京都では多忙すぎて面会できなかった若殿と兵庫で会う段取りを大野右仲が整えたことが広沢さんの日記「鞅掌録」に書かれています。

 

  • 第八話(2/24放送)

今週(文久3年)の右仲さん(27):攘夷決行と連動して、生麦事件賠償金支払いの件を託された若殿と共に京から江戸へ戻るも若殿と大喧嘩して追い出される。若殿が開国論を唱えたりするのは前外国奉行の水野が悪いに違いない!と暗殺を計画するも若殿に気づかれたり病気でぶっ倒れたりして大☆失☆敗☆


補足:生麦事件賠償金支払いと、それにまつわる水野暗殺未遂事件についてはコチラ