大野右仲
大野右仲 おおの・うちゅう(御子孫の話では「すけなか」)
天保9年(1836)12月8日~明治44年(1911)6月11日 ※天保7年生説もあり
別名:又七郎 字:考孫 諱:興宗 変名:松川精一
幕末-明治時代の武士・官吏。肥前唐津小笠原家臣。
古賀謹堂、藤森天山門下。昌平黌にも入る。学友に高杉晋作や河井継之助などなど。
安政元年十九歳で江戸へ行くと、唐津藩主子息小笠原長行に「食客又は子弟」のように世話になりながら、廃嫡になっていた彼の為に奔走。長行の復権後はその手足となって活躍する。藩主名代となった長行に攘夷を進言するが聞き入れられず、文久3年前外国奉行水野忠徳を襲撃するも失敗。
鳥羽伏見後、江戸開城を前に江戸を立ち北へ。松平容大により唐津藩士統率心得方を命じられる。会津・長岡の戦闘に協力。仙台で旧幕府脱走艦隊と合流し、長行に従うため新撰組へ入隊。箱館政権では陸軍奉行添役として陸軍奉行大鳥圭介・土方歳三の補佐官を務める。長行を江戸へ見送ったあと、箱館で降伏。旧藩に引き渡され、翌3年1月に放免される。
赦免後、豊岡縣権参事として当地へ赴任。その後、千葉縣准判任御用掛、同縣長柄上植生郡郡長、同縣一等属、長野・秋田・青森縣警部長、山形縣南村山郡郡長などを歴任し、東松浦郡郡長を最後に官を辞す。
終焉地は芝区田町。墓所は谷中霊園の塩谷家・島田家近く。戒名は良知院外温内剛居士。
参考:『日本人名大辞典』講談社、『文藝別冊 総特集 新選組人物誌』河出書房新社、「国事鞅掌報効志士人名録」史談会(p243-244)
親族関係
- 父親は儒学者で唐津藩の督学、使番(=江戸留守居役)の大野右仲(肯堂/勘助)。本籍は因幡。
- 母親は儒学者、塩谷宕陰の娘たに。『宕陰先生年譜』(塩谷温/大正12)によると、どうやら子供はいなかったみたいなことが書いてあったりするのですが、最終的に嫡子となる男児がいなかったと言う意味に捉えました。塩谷家は宕陰先生の弟、塩谷箕山が継いでいます。
- 兄弟は四歳ほど年下の妹、大野澄子。元治元年に小笠原長行公に従い江戸へ出て、儒学者の島田篁村の妻に。子供は三男三女、次男と娘一人は夭折、他の四人は漢学者、或いは漢学者の妻になっています。
- 夫人は漣子さん。この人も色々不明なのですが、やはり漢学関係者ではないかと。澄さんのことを考えると、やはり宕陰先生周辺からの紹介である可能性が高いと思われます。一緒に観劇しているのを目撃されているので(『学海日録』)夫婦仲は良かった様子。