缺月在天-大野右仲-

あっちこっち書き散らかした【大野右仲】にまつわるアレコレ

学海日録(安政5-明治31)

たびたび引用する依田学海の日記「学海日録」から、大野右仲の名前が登場する部分のみ抜粋したものです。

安政5年から明治31年まで、断片的にとはいえ大野さんの交友関係や足跡を辿ることができるので重宝しています。索引から引っ張ってきたので、きちんと通して読んだら他にもあるかもしれませんが全11巻、約50年分ありますので…。

新選組関係でも土方と会った時の話などを引用されることが多いですが、とにかくマメに書かれた日記なので当時の様子がいろいろわかり、普通に読んでも面白いです。

底本は岩波書店発行『学海日録』同研究会編1990~93(全11巻+別巻[索引]1)

 

安政5年(1858)
8月20日
(頭欄)「唐津の人大野孝孫再び来たりて云ふ、昨日を以て至れりと」

 

8月24日
新津圭斎云ふ、冷徹の疫盛行するも、之を医(いや)すに法有り。上好の茶、一盞(さん)に盈(みた)すこと八分にして火に上せ、酒もて其の余を補ひ、服せし後被を掩ひて臥せば、汗を発して下痢は止む。右は竹内玄洞が経験せし所なりと云ふ。聞く、近ごろ病に繋(かか)りて死せし者は十二萬零五百八十二人なりと云ふ。圭斎は甲斐の人なり。郷書を得しに云ふ、甲府地方、死する者頗る多く、旅店に客を息(いこ)はしめざる者有りと。大野孝孫塾に入りて云ふ、孝孫東海に道せしに、奥津・蒲原・吉原三駅の役夫皆病み、死する者半ばを過ぎ、馬率を備ふること能はずと云ふ。荒木叔遠は薬方一通を示して云ふ。林洞海氏の撰する所にして、之を用ひて頗る回生せし者有り。聞く、水戸の人桜任蔵遍く之を人家に施せしと云ふ。任蔵は義侠の名有り。甲寅の歳、都下に大震ありて、士民饑渇せり。任蔵は書を鬻(ひさ)ぎ剣を売り、全治せし所の者数千人あり。又節に死せし者に於て一書を著作し、以て不朽に伝へんとせり。嗚呼、当今若(かく)の如き人幾人ぞ。余之が為に赧然(たんぜん)たり。

 

8月25日
大野・坂田・渥美・草場等と金龍山に遊び、大酔し、二更にして帰る。

 

8月28日
晴。佐藤士勝来たりて云ふ、将に来月を以て其の国に帰らんとすと。余の贈言を徴せり。合田猪之助来たりて云ふ、疫愈盛んにして、築地の秋元氏の二子並びに亡し、久保桂之助も亦殆(あやふ)しと云ふと。阿南恕介来たる。夜大野興宗と話せり。聞く、尾侯の謫せらるるや、其の宰渡辺飛騨大いに怒り、士数百人と、主公罪無きに、何の故に謫を受けしやを議し、罪を彦根に請問せんとし、因りて将に兵を率ゐて直ちに彦根城に至らんとす。侯聞きて大いに懼れ、自ら書もて之を止めたれば、飛騨乃ち止まりたりと。又福井侯は自ら思ふに、厳譴を受けたれば、臣が罪は誅に当たると。因りて凶服を着し、堅く一室に坐し、敢へて妄りに言はず。諸臣は其の病を成さんことを恐れ、屡少しく自ら安んぜんことを言ひたるも、侯は聴かずと云ふ。嗚呼、二公の人心を得たる、最も恭謹なる、国家の屏藩と謂ふべし。幕朝は何の故に之を芟(か)り、之を□(廾+弊/はら)はんとするか。鎌倉氏の轍、将に今日に見んとす。悲しい哉。

 

9月13日
家慈を藩邸に省せり。是の日聞く、熊谷の三浦氏は保岡正等をして離昏を議せしむと。夜、月甚だ明らかなり。金子士誠・渡部広・大野孝孫と飲む。

 

9月16日
西村伯璣を九段阪に訪ひ、次いで阿南恕介・田中子一を問ひしも、皆在らず。大野孝孫と飲めり。

 

安政6年(1859)
7月20、21日
この日院直なれども伯子の直にあたりつれば、書を小柴伝太におくりて日を後に[  ]り。この日よく晴。久しく朝くら元紀(モトトシ)を問はざりしかば、この日おもひ立てゆきてとふ。先、昌平坂の学校にて大野・股野・野口・金子・林原等に対面す。姫路殿の家臣奥山某にはじめてあふ。某は江戸の産なり。晩後即ち本郷に往き朝くらを尋ぬるに、かの家の人対て、朝くら氏は去月の中ごろ本国へゆきぬ。葉月の末になりなば再び登るべしとなり。大いに望みを失ひて帰る。

 

11月27日
(川本)三省と共に藤森翁を訪奉る。ひる過る頃、翁に従ひておもむきし大野又三郎来りて、翁いよ/\中追放とて、武蔵・山城等数国の内徘徊なり難き罪を蒙らせ給ふ。家の財(たから)などはそのまゝに給ふといふ。今までは遠き島に流され給はん、又は重き追放とやらんなどといひしろひたりしに、かくときゝて、不幸中の幸に候はんと皆々慶しあへり。かくて翁は、七軒丁の華蔵院といへる寺におもむき給ひ、かの寺にてよろづとりよろひ、指すべきところにおもむき給ふとぞ。夕がたより雨ふり出づ。三省と共にかへる。
 (頭欄)「薬二百三十貼」(続けて翌日)

 

11月28日
藤森翁、一先江戸を去りて、下総の千葉のかたに知るべあればとて立出給ふ。讃岐の小橋橘園、肥前の大野孝孫又七郎ともに行めり。廿九日。三省とゝもに翁の家におもむく路に、官府のこと尋ぬべきことありて、八丁堀同心の吉本平三郎を訪ふ。ひる過る頃、翁の家にゆきてかくかくと打語ふ。

 

慶應3年(1867)
2月20日
小橋恒蔵を熊本邸にとふ。させる新聞もきかず。大野又七郎を大名小路のやしきにとふ。又七郎、名煕宗、余が藤森翁氏に在しときの学友なり。今は執政家のきりものとなれり。此日、柳原を過て戸田侯の臣渥美恵吉にあふ。恵吉と相別れて三、四年を経たり。恵吉、獄に入て患苦を経たるよしをきく。柳橋の側に小憩して暫く打語らふ。

 

明治8年(1875)
4月15日
蓮池の例会に至る。唐津の大野孝孫に逢へり。今名を右仲といふ。豊岡の参事たり。原時行に逢ふ。始小太郎といひき。

 

明治12年(1879)
11月21日
藤森天山翁の忌日なれば、諸同門の士を会して祭奠を設なんとて、川田編修・大野書記官・俣野書記官を始、在京の旧友に激を飛せて不忍の長酡亭に会す。まづ先生の肖像を上坐にかゝげ、香を点じてこれを拝す。余は同門旧友会記一篇を作りてこれをよむ。訖りて酒をのみ歓を尽して散じき。この(ママ)秋月議官・横山処士も先生と旧あればとて来会せられたり。
(口絵に集合写真有:前園昇・川本省一・股野琢・大槻肇・牧山耕平・小崎利準・藤森脩蔵・依田学海・中沢賢作・増田賛・井上揆・大野右仲・川田甕江・渥美正幹・岩永才八郎)

 

明治15年(1882)
11月24日
翳。昌平館に至り学事諮問会の答議をきく。けふは、埼玉・群馬・千葉・茨城の四県なり。千葉は旧友大野右仲、学務課長をもて問に答たり。問に答終りていへらく、対問の外に於て申すべき事二条あり。一には、教育令を改正せられしにより、これを前に比すれば極て事多く、且詳密におもむけり。昔の簡にして疎なるに勝ること遠し。しかれども、たゝ゛その令の詳にして尽せるを見るのみ。これによりて新に費用を給せられず。凡そ事を増し業を興さんとするには、必ずその用なるべからず。仮令ば警察のことを発するに及びては、乃ち新に警察の費を地方税のうちにまふく。又、租税を徴収するには、又その徴収の費あり。皆その事あれば必その費あるべきは道理なれば也。ひとり教育に至りてはその令の厳なるも、その費を賜る事なし。請ふ、新に費用を立らるゝか、或は又、文部補助費をもて再びこれを給らんに於ては、尽さずといふともやゝ無にまさらん。二つには、教育の事は文部の直轄に帰し、教育の長をおくこと、仮令ば警部の長をおくが如く、県令と協議して教育の一部を独立せしむべしと也。この議は殆ど群馬県師範学長内藤耻叟の説と相近し。大に人聴を聳せり。
(頭欄)「内藤耻叟は余が集議院にありしとき同じ議員なりき」「この人、漢学にはくわしき人なり。この人の論はいみじき演説にて、中学の教は巧語伎術のみに偏して道徳の義に疎なり。かくてありなば、この学に修行せしもの、道徳の人は乏しくして、反て人智を益すによりて、盗に糧を齎(もた)らし、寇に糧を資るに似らんかといへり」

 

明治26年(1893)
9月5日
晴。風止、涼気あり。やゝ秋を覚ゆ。三崎坐にゆきて荊婦・花・柳二枝女と戯をみる。久米八の畠山、団十郎の風に模擬していとよかりき。かつらの小次郎重秀及び鶴岡神主山城が娘月小夜、二役ともに出来よかりし。小次郎の立まはりはげしく小児子ともおもはれず。此のかつらはもと越前福井藩の小卒の女とか。姉はかほるといふ。これも同じ此座にあり。芸はすこしおとれり。二女ともにこの頃まで地方をめぐりて伎芸をもて口を養ひしといへり。妹の方、容貌もやゝよし。又桂升の榛沢六郎成清が重忠が命をうけて戦場を落る所甚妙なり。この脚本は上出来と覚ゆ。
 (頭欄)「大詰の天狗舞不動の瀑は見るべきものなし。カラスの瀧さらに見るべきなし」此日劇場にて旧友大野右仲夫妻に面会せり。青森の警部長たりしが官を罷めて今湯島妻恋明神のほとりに在りといふ。

 

明治27年(1894)
7月18日
かねて約ありて、川田甕江氏の宅にて月見宴を開き、岸田吟香・小崎公平・大野左仲と会す。五時よりゆき、十時にかへる。
 (頭欄)「此夜はいろゝの旧話ありておもしろかりき。岸田、支那にゆきて出板の書を多く出せしが、外人の為に摸刻せられて七万円の折閲なりとぞ。又岸田家族、いづれも近きわたりの戯場をひとたびも窺ひし事なしと。小崎、岐阜にありて政事の功あり、人民大に服す。さればのちの知事員義某、小崎が過失を論じ、そを有心故造として裁判に出せしに、毫釐もその実なし。よてこれが為に連累せられし人々、皆罪無しと決断せられたり」

 

10月8日
雨。天山先生三十三忌、及びその配三坂氏の二十三年をともにして、麻生浙江曹渓寺にて仏寺あり。小崎公平・大野左中・前園昇及びその弟、脩蔵氏の未亡人等、こゝに集会す。読経終りて墓に詣ふず。晩食を長坂の更科に蕎麦を喫す。この曹渓寺、むかしは大地にして仏殿などいと広かりしが、去るとし火災にあひて今はせまし。又、半僧菩薩とやらんを祭りて、赤き堤燈など本堂に吊したる体、田舎寺めきて興醒たり。先師の墓は今、囲の中にあり。潔く掃除して、三坂氏の墓とならび、川田甕江がかける碑、苔も生ぜず立てり。昔思ひ出されて涙堕しぬ。秋風の冷やゝかに身に浸む心地するも、ところがらにや。

 

明治28年(1895)
4月27日
○(頭欄)「星岡小集」去る日の約に従ひ、山王公園の星岡茶寮に至る。会するもの、川田甕江・小崎利準・大野右仲・岩永才八郎等なり。旧を話し、新を談ず。興に入ることかぎりなし。此日きく、魯西亜国、我清国の和を入れて、その盛京省の地を取りしことをもて、これを妨げむと謀るよしの風聞あり。これが為に新聞の停刊せられしもの多しといふ。その真偽はしらざれども、実にこれあらば、魯国の我を軽蔑すること甚し。彼その強大をいたしたるものは、何のゆへぞ。皆隣国を并呑したるにあらずや。己はこれを為し、人の所為を妨ぐ。その義いづくにか在る。況や我清と戦ふとき局外中立を布告したるに、今又割地の不可をいふ。これ自ら矛楯するに非ずや。此日会席料理にて金壱円、外に席料として壱人に金二十五銭を求む。

 

明治31年(1898)
9月29日
雨。(中略)前園昇来りて、天山先生三十七回忌を十月八(ママ)日に行はんとす。よて今都下にのこる門人ははつかに小崎利準・余及び大野孝孫・岸田吟香・岩永巌山のみなり。しかるに大野は他県に奉職せしが、今やめて東京にかへれりとも又かへり来らずともいひ、岸田はその妻を離別して家事頗混雑すともいへり。よつて小崎・余・岩永・前園の四人相会して先生の墓に至り、のちに一会して旧を談ずべしといふに定む。