缺月在天-大野右仲-

あっちこっち書き散らかした【大野右仲】にまつわるアレコレ

大野右仲の長野県警部長時代に関する一時まとめ(2007/05/10)

大野右仲は明治16年から長野県警部長を務め、その後も何度か警部長を歴任しました。

*警部長について

日本の警察制度に奏任官である「警部長」が登場したのは、明治14年11月。当初は八等相当。ちなみに、はじめて警部長に任命されたのは翌15年1月14日付の神奈川県警部長。

府県の警察の長官を、今は警察本部長といい、戦後国警と自治警との併立時代には暫く警察隊長と呼ばれたこともあるが、戦前には多く警察部長で通っていた。しかしそもそもの始まりは警部長であり、警務長と呼ばれた時代もあった。名称は何であろうと、府県の警察の総指揮官であり、地方の警察組織の中心として、日本の運営の上に占めてきた地位は大きい。
(高橋雄豺著『明治年代の警察部長』第一章まえがき)

仕事内容は、事務処理から多数の警察官の統御と指揮監督、犯罪捜査や治安の保持、法令の執行など。

 

*就任期間 

明治16年 ~明治20年

  • 前任者・後任者

前任者(初代)は大野県令と旧知の皆川四郎(信州出身/元代言人)
後任者は山田吉雄(南部藩士/山田美妙の父親)

  • 県令 

直接の上司となる県令は、
大野誠(新発田藩士)明治16年7月7日~明治17年10月27日(在任中に急死)
木梨精一郎(長州藩士)明治17年11月5日~明治22年12月26日

 

*就任の経緯

大野右仲が警部長に就任したのは、いわゆる「自由任用」の時代でした。まだ文官任用の具体的な規則がなく、何らかの基準は示されていたかもしれないけれど「よく言えば人物本位、悪く言えば実状因縁がものをいった」ような状況。また、そもそもの官吏の数が少なく、経験の有無を問う余裕などもなく、候補者が少ないため人選困難だったようです。更に、奏任官とはいえ中央政府内務省)が選任するのではなく、府知事県令の上申によって任命されていたのでした。
そんな前提があるので、大野右仲の長野県警部長就任が、友人である大野誠県令との縁故によるものであることはほぼ確実であると思います。
右仲さん、豊岡県では庶務課も担当していたとのこと。地方における警察制度がある程度確立する以前、裁判や警察の業務を行っていたのは庶務課でした。その点で言えば、大野右仲はもともと奏任官であり、ある程度の経験もあるということで、警部長という職は適任であったのではないかと思われます。

 

 

*「信濃毎日新聞」の記事

信濃毎日新聞」明治44年1月21日の四面。タイトルは「犬の妖怪退治(五)」
妖怪が出ると評判の小木曽邸で、飼い犬が化け物を退治したという逸話に関する連載記事です。逸話というか小説というか。※記事本文は国立国会図書館で閲覧可能。

長野県令となった大野誠は、長野の七道開削事業をすすめて『道路県令』と呼ばれました。在任から3年3ヵ月で急死するまでに完成したのは第一線(碓氷峠)のみですが、彼が多くの反対を押し切り(当初は賛成意見が多く寄付金も多く集まっていたのだが、折からの松方デフレで雲行きが怪しくなっていた)、県会議員の大部分を説得してこの大事業を軌道に乗せたからこそ成功したものだったようです。当時、長野県令の官舎は妖怪屋敷と呼ばれていた小木曽邸でした。その妖怪屋敷で一人で暮らしていた大野県令が寝ている時、道路開削反対派と思われる刺客に襲われ、いつも枕元に置いている護身刀を抜いて庭に逃げた刺客を追いかけるも刺客は姿を消してしまいます。そこで、

大野氏はただちに股肱の部下の非常招集をおこなった。馳せ集まったのは警部長大野宇忠氏(?)、庶務課長の肥田野畏三郎氏、警部の肥田野五郎氏、県令となにか縁戚の関係にある菊池某の五人、……。

こうして五人の部下を呼び捜索させましたが、結局犯人は捕まらず、足跡も残さず物音を立てずに消えたことから化け物であったのではないかというオチの話です。実際は逃走経路をきちんと確保していたために逃げ切られたということだと思いますが。そして襲撃犯は、当時対立していた自由党系の人間ではないかとのこと。

この事件が起こったのは記事の中では「明治十五六年頃」とされていますが、大野県令在任中の長野県警部長は皆川四郎と大野右仲の二人だけですので、この「警部長大野宇忠氏」は大野右仲で間違いないでしょう。
宇忠氏は部下の筆頭に挙げられていますが『警部長大野宇忠氏(?)』となっております。ハテナって、ナニ。他の人、それも名前が判っていない『菊池某』ですらハテナなんてついていないのに。この短い記事だけでは正確には判らないのですが、どうやら大野県令の後任だった木梨精一郎(長州藩)の語った話のようなので、名前の漢字までは覚えておらず、或いは聞き書きであったため漢字がわからず、とりあえず「うちゅう」という音に「宇忠」と言う字を当てて「(?)」を付けたのではないかと思います。事件からこの記事が書かれるまで約30年もの間がありますから。

「庶務課長の肥田野畏三郎氏」は大野県令の父親の弟の息子、つまり従兄弟です。共に江戸にあった私塾・春風館の経営もしていたことがあり、密接な関係。長野師範学校の初代校長。「警部の肥田野五郎」も、たぶん親戚なのだと思います。「菊池某」は恐らく、大野県令の同郷で秘書だった菊池武和氏のことではないかと。大野県令の死後にその長女と結婚しています。
「股肱」というのは「手足となって働く」と言う意味。つまり「股肱の部下=腹心の部下」かと。大野県令は、特に教育関係と警察関係を自分の縁者や知己で固めたことで道路開削反対派、というよりも、激化していた自由民権運動の統制を行っていたようです。

 

*肥田野五郎のこと

高橋雄豺著『明治警察史研究1―明治時代の警察幹部教養』(令文社/S35.3.1)より。
警官練習所の明治19年3月の卒業生に警部受業生として「(長野)肥田野五郎」の名前を発見。これはどうも大野県令の親戚のようです。『信濃毎日新聞』の明治43年1月16日の記事の中では「警部の肥田野五郎氏」という形で登場しています(「*「信濃毎日新聞」の記事」参照)。大野県令の没年が明治17年なので、この事件の時点で肥田野五郎が警部だったのかどうかは未確認。新聞記事といっても連載記事のラストに付け足された談話なので、多少の差異はありそうです。

 

*大野県令と大鳥圭介

長野郷土史研究会機関紙「長野」229号(2003.3)のあとがきより。
子孫にあたる方が所有している大野県令宛ての書簡の中に、大鳥圭介からの手紙があるそうです。あとがきで紹介されているのは、明治16年ごろの「日光山保存議会」の募金についてのお知らせ。大鳥さんが有志から資金を集めて日光山の復興につとめていることがよくわかる書簡とのこと。大野県令と大鳥さんの関係は、大野県令の最初の出仕先が工部省なので、その繋がりではないかと思われます。

 

*参考文献

長野県史刊行会『長野県史 通史編』第七巻 近代一/S63.3.31

長野県史刊行会『長野県史 近代史料編』第四巻 軍事・警察・司法/S63.3.20

長野郷土史研究会機関紙『長野』第227号/2003.1

長野郷土史研究会機関紙『長野』第229号/2003.3

信濃毎日新聞』明治43年1月16日(国立国会図書館

高橋雄豺著『明治年代の警察部長』良書普及会/S51.7.1

長野県公式ホームページ「WEB SITE 信州」http://www.pref.nagano.jp/index.htm

 

元記事:はてなダイアリー版 2007/05/10