缺月在天-大野右仲-

あっちこっち書き散らかした【大野右仲】にまつわるアレコレ

大野右仲と水野忠徳暗殺未遂事件(2010/06/13)

大野右仲追っかけをやっていると必ず直面して「え?」ってなる事件なのですが、箱館で陸軍奉行添役やっている大野右仲しか知らない方にはかなり意外なエピソードであるらしいことが周囲の反応を見ていてわかったので、手元にある資料で流れと背景だけでも紹介できればいいなと思った次第であります。

というわけで久しぶりにレポートっぽいことを書いておりますが、そもそも素人ですのでその辺りはご理解いただけましたら幸いです。

 

≪水野忠徳暗殺未遂事件≫

大野右仲が元外国奉行水野痴雲(忠徳)の暗殺を企て、文久三年五月十九日八ツ時、上山藩金子与三郎に計画を話して壮士一人を借り受け、更に下谷の伊庭道場へ赴いて同道場に通う新発田藩大野険次郎に相談、当人を仲間に加え、神田橋外の広場で唐津の下屋敷に小笠原長行を訪れた帰りの水野を待ち伏せ。しかしいつもは神田橋を通る水野がこの日に限って常盤橋を通ったために失敗。

翌二十日に右仲が病に倒れ、寝込んでいる間に水野が長行と共に京都へ出立した為暗殺は中止となりました。ちなみに翌日の二十日、京都で姉小路公知が暗殺されています。

 

 

1.発端

水野忠徳は文化七年(一八一〇)生まれの旗本。老中阿部正弘に認められ出世コースを駆け上り、浦賀奉行、長崎奉行勘定奉行、田安家家老などをつとめ、安政五年(一八五八)初代外国奉行となって日英修好通商条約・日仏修好通商条約に全権委員として調印。翌年、神奈川奉行も兼任するがロシア士官殺害事件の責任を問われて閑職へ左遷されるも、文久元年(一八六一)には外国奉行に再任。公武合体に反対して箱館奉行に左遷されるが赴任せず辞任。事件の起こった文久三年の時点では痴雲を名乗って隠居していました。

隠居して現役を退いたとは言え、外交関係では第一線に立ち続けた人物であり、生麦事件の賠償金支払い問題を抱えた老中小笠原長道行の相談相手となっていました。暗殺計画の発端となったのもこの賠償金支払いをはじめとする外交問題です。

一方この時期の右仲は、いわゆる攘夷派でした。それも事件を起こす前年には捕縛されかかって京都へ逃れるほどの過激攘夷論者だったとの本人談。当然、生麦事件賠償金支払いには反対であり、彼の周囲を取り巻く人物たちも反対派でした。というよりも、賛成しているのは外国関係の役人の一部という状況。

老中として、賠償金支払いに関する談判をするよう命じられて江戸へ戻った長行は賛成派。しかし幕府の方針は支払い拒否であり、板挟みの状態にありました。

賠償金を支払わなければ戦争になるかもしれない。しかし支払えば攘夷決行を要求する朝廷やそれを受けた幕府を裏切ることになってしまう。だから賠償金を独断で支払い、上京して支払った理由と攘夷ができない訳を在京の将軍や同僚、そして朝廷へ説明する、というのが長行の決断でした。長行よりも京都の状況を理解している右仲はそれが不可能なことであると進言。

其れでは賊名を帯びて死なゝければならなぬそんな人に仕へる事は出来ぬと云ふ(すると長行が)平生は至つて柔和な人であるが、其時は怒つて賊名を帯びるとは何事か、手前ひとり家来ではない勝手に出て行けと云ふことで、私もまさかあやまる訳にも行かぬから、其れでは出て行くと言つて屋敷を出ました(史談会速記録第三十一輯)

しかしどうしても止めたいということで、賠償金支払いを頻りと勧める水野を排除することを思いつくのでした。

そうして五月九日、長行は独断(という建前)で賠償金十万ポンドをイギリスに支払い、五月二十日には大軍を率いて江戸を出発。大阪へ向かい将軍家茂に支払いの弁明・攘夷の不可能であることの説明を試みますが、途中で止められ、将軍へ謁見することなく大阪城代に身柄を預けられ、そ老中職を罷免となりました。右仲の危惧したとおりの展開です。

九日に賠償金を支払い、右仲が暗殺を決行したのは十九日。支払いを止めるためならば遅すぎるわけですが、本当に止めたかったのはこの上京だったのかもしれません。水野は外国奉行井上清直らと共に長行の上京に従っており、一連の長行の行動も水野の発案ではないかとされています。

 

2.協力者

ところで何故、暗殺を決めた右仲は上山藩士金子与三郎の元へ向かったのか。

文久三年六月五日、金子は在京の老中板倉勝静の側近山田方谷に宛てて書状を送っていました。書状の内容を簡潔に言うと「処罰して欲しい開国論者リスト」です。金子は熱心な攘夷論者でした。

 大奸以忠 水野痴雲

右屠腹被仰付候て可然(『幕末之名士 金子与三郎』)

もちろん右仲の周囲で攘夷論を唱えていた人物は金子だけに限りませんでしたが、金子のこのような発言に日ごろから賛同していた結果、水野の暗殺を思いついて相談したのではないかと思われます。

また、助っ人となってくれた大野倹次郎も右仲と交流の深い友人でした。新発田の豪農の出身で、右仲より二つ年上の天保五年生まれ。箱館から密かに江戸へ戻ってきた長行を数年にわたり匿った人物であり、維新後は新政府に出仕して要職を歴任し、最後に長野県令となった際には右仲を警部長として呼び寄せています。

そんな彼が計画に加わった経緯を、右仲は次のように語っています。

水野痴雲を斬るから迹で其始末を実父に話して暮れろと頼む、けれどもあの男の為めに命を棄てるは嫌やであるから斬つて逃げる、倹次郎の言ふには其れでは己れも手伝はふ、中々斬れぬものである、斬つたことがあるか、いや斬つたことはない、中々斬れるものでないから手伝はふ、私の為めに連累を拵へては困まるからと云ふと、其れでは見物して居るから斬り損つたらばやらうと云ひました(史談会速記録第三十一輯)

お兄ちゃん心配だからついて行くよ的な空気を感じずにはいられないのですが、その印象があながち間違っていないかもしれない気になる記述が別資料にありました。

右仲も倹次郎も藤森天山の門下です。というわけで望月茂著『藤森天山』の人物紹介の項目に二人とも名前を連ねているのですが、それによると、

右仲から水野忠徳暗殺の計画を聞かされた際は、秘かに、忠徳に通じて、これを逃れしめ、双方に事なからしめたのであった。(『藤森天山』)

同じ書籍の右仲の項目で箱館を出た長行に右仲が随伴したことになっているので(実際は箱館に残って戦っているはず)どこまで信用できるのかは不明ですが、それにしてもこれが本当だとしたら、どこまで右仲さん空回り…!ということに。

かくして大野右仲による水野忠徳暗殺計画は失敗に終わり、結果として大事には至りませんでした。病から回復した右仲はすぐに大阪の長行のもとへ駆けつけ、その復権のために走り回ることになります。もちろん、長行を嫡子とするために動き回っていたときと同じように、広大な人脈を駆使した活動によって。

彼の生涯の全体をとおして見ても力ずくで事に及ぼうとしたのは後にも先にもこの暗殺未遂の一件限りのようで、やはり若気の至りだったのだろうと思います。文久三年というこの時期の、彼らを取り巻く空気がそうさせたのかも知れません(でもオチがついちゃうところが右仲さんなんだろうなぁ!)

 

参考文献:

史談会編『史談会速記録』第31輯(合本6に収録)原書房

望月茂著『藤森天山』S11 顕彰会

古賀茂作著「大野右仲」 (『続・新選組隊士列伝』S49 新人物往来社に収録)

寺尾英量編『幕末之名士 金子与三郎』1997 (上山市史編纂資料第21 集)

福地源一郎著『幕末の政治家』1989 平凡社東洋文庫501)

 

元記事:イベント配布ペーパー 2010/06/13